昭和44年12月15日 朝の御理解
 
 御理解 第60節
 「おかげは受け徳、受け勝ち。」

 おかげは受け徳、受け勝ち。頂き間違えると、大変なことになるような感じのご理解ですね。ですから問題はこの、“おかげ”と言う所にあるようです。ところが皆さんも知っておられ、皆さんも使っておられるように、お道では全てがおかげというのですからね、何もかにもが、何もかにもがおかげを頂きましたと、こういうね。いわばおかげの乱発とでも申しましょうか、もうただ何をしても、そのおかげを頂きました、おかげ頂きましたとこう言う。
 本当に金光様の信者ぐらい、おかげを頂きましたという言葉を使うものはあるまいと思いますね。それでいてんならおかげを、しかしなんですか、大変美しい言葉ですよね、どんな場合でも、おかげを頂きました、怪我をしてもおかげを頂きました、泥棒に物を取られてもおかげ頂きましたと、まぁいうなら、全てをおかげで頂いておるというわけですけれども、果たしてその人の心の中にね、本当に有り難いていうものがなからなければ、おかげを頂いたと言う事にはならないと思うんですよね。
 心ん中に有り難いと思うから、自ずと「有り難うございます」とこういう。お参りをさして頂いてお引き寄せ頂いて、今日もおかげを頂きましたと。今日お参りさして頂いたと言う事が有り難いから、おかげを頂いたと、いわば言わなければならんのですよね、ですからおかげを頂いたと言っておるその内容が問題なんです。北野の中村さんの、有名な言葉の中に、「先生、金光様の御信心な、お参りのしもうけ、お供えのしもうけですな」という言葉があります。これはもういつまでも残る言葉だと思うですね。
 先生お参りのしもうけ、お供えのしもうけ、私はこれだと思うですね、そういう実感を持って、私共がおかげを頂きましたと、いうおかげならこれはいわば、当たっておると思うですね、できるだけしばっかり参って、おかげを頂きたい。少しできるだけ少しばっかりのお供えで、がばっとおかげを頂きたいて、というのじゃないわけですね、いわば海老で鯛釣るような考え方を、皆が持っておるですね、できるだけ修行は上品な少しばっかりな修行してしかおらん、でおかげは一人前以上に願っておる。
 できるなら毎日参らんでん、まぁ月に何回ぐらいで、おかげだけはやはり頂きたい。いうなら海老で鯛釣るような考え方なんですね、そういう意味でですね、例えば受け徳受け勝ち。ここにおかげというものがあってね、それを例えば早や取り勝ちと言った様なね、言う様なそのうものではないですね。受け徳受け勝ち。今日私この60節を頂くために、まぁ一番、御教えの中では一番簡単なこりゃ御教えですね、言葉たったそれだけですから、「おかげは受け徳、受け勝ち」。
 大体今日はこの中からどう言う様な事を頂くのであろうかと思うて、またお願いさして頂きましたら、ご理解15節を頂いた。「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」と。そこで私が今日みなさんにです、ね、一生懸命ね、人が10編参るなら20編参りなさいと、人が千円お供えする時は、一万円お供えしなさいと、と私がね、私が進めて参らせたり、私が進めて御用をさせたり、お供えをさせたりしたのでは、神は喜ばんと仰るのですね。
 氏子が真から用いるのは神のひれいじゃ、この辺が中々難しいところですね。私は思うですね、金光様の信心させて頂いてからね、あのうお供えがでけんなんて言う様な信心で、もし一生終わったとするならね、もうこんなつまらなん話はないと思うです。もうそれはおかげをいわゆる頂いていない証拠です。13日会の日でしたかね、どなたかのお話にあっとりましたがね。
 千円もうかって一割のお供えは、案外きやすく有り難くできる、おかげ頂いたというて、一割ぐらいのこつはもう、一割ぐらいのことじゃ相済まんというて、お供えをする。それがね、10万円になり100万円になり、1000万円になってくるほど難しいち。だから問題はね、金光様の信心しておかげを頂く人は、その難しいと思われる、そこがもう当たり前のごとしてできることだと。おかげを受ける人は皆それですよ。考えてきて御覧なさい、こんなおかげはないですよ。
 お願いして1000円もうかったから、一割お供えする位なことは有り難いが、さぁ100万円もうかって、10万円お供えするという時には、ちった難しゅうなる。なんかそういう、ばさらかお供えしとるごと、がばっと90万円ちゆうとはもうかっとっとじゃん。それがもし一万円、いや一千万円ちゆうことなったら、一割の100万円のお供えするとは、もうこげん有り難いことはなか、900万円も、もうかっとるとですから。ところが、900、1000万円が。
 例えば1億円ちゆうごたる風に大きくなってくるとです、人間ちゆうもんな汚なか証拠で、ね、それだけはおかげを頂けれるようになったと言う事なのですけれども、それがよう出来ん。不思議なことです。千円一割残る900円、900円ぐらいのおかげで甘んじておらずにですね、例えば100万円もうかって、10万円のお供えがでけて、90万円もうかった、手取りの90万円の方が良うはないか。
 手取りの900万円の方が良うはないかと、ところがお互いの心の中にそういう汚い心がありますから、いつまで経っても100円しかお供えができんちゆうごたる、もう百円均一のごとなってしもうとる人がある。だからお供えは、決して決めちゃならんと、昔からおかげを受けた人たちが言うておりますね、この辺のところをですね、私はおかげは受け勝ちと、受け徳とね、どうぞ同じ一割でもです、100万円の一割と、10万円の一割というたら、一割ぶりが違うでしょうね。
 そこんところをです、私はおかげは受け勝ち、受け徳と言う事になるのじゃないかと思います。いわゆる、中村さんのお供えのしもうけね、お参りのしもうけ。それにま一ついうなら、御用のしもうけということになるのです。どうでしょうね、からというて先生があ~言いなさるからお供えしたと言う様な事であっては不浄がつく。いわゆる神が喜ばん。この辺のとても教導が難しいですね。
 神様も喜んで下さり、皆も喜びね、と言う様なおかげ。だからもう小分にしときゃよかがの、もう100円でよかがの、もうお供えはせんでんよかよ、神様はもう真心さえありゃ、庭の散り葉でもよいといわっしゃるとじゃから、お供えのことなんかは、いっちょん考えんな~参ってきなさい、参ってきなさいと。なるほどよか先生のごたるけど、ところがそれではおかげを受けられんから不思議なんだね。
 かというて、もう御用頂くこつばっかり言わっしゃる先生、もう信心は御用なり、てんなん言うちから、もうまるきり信心なお供えしたり、御用頂くことだけが信心のごと思うとる先生がある。そういう先生を、お取次ぎをされる先生ではなくて、お取り込み先生ちゆって(笑い)誰かがそんなこと言われるね、あぁあっちはお取り込み先生じゃから、もう信者から、もうとにかくもう、お供えさすることばっかりいわっしゃるね、そこでお供えせろ、お供えせろと言わんで。
 というてお供えせんでよかばいと言わんで、そしていて、カバーカバ、お供えさせられるだけの、私はお取次者が必要だと言う事になってくるんです。そこの教導者、教導者が必要と言う事になってくる。ためには一つ、このご理解60節をよう分らにゃいかんちいうことです。お供えしもうけばいと言う事です。御用が頂きもうけよと、と言う事をです、んなら取次がせて頂くその人がです、やはりその実をね、上げてそういう信心を身を持って頂いて、教えれる先生が必要になってくるちゅうことです。
 はぁそのお供えをさして頂くことに一つの憧れ持つ、今年はとうとう、百円づつのお供えでしまえたが、せめて来年な~200円づつね、その次には500円づつぐらいお供えがでけるように、その次には1000円づつぐらいが、平気で有り難くできるようなおかげを頂かして下さいと言う様な願いを持たなきゃいけん。おかげのことだけは願いよるけれども、そういう御用のできることを願いとしてない、そういう願うと言う事がです、神のひれいに繋がるんですね。
 氏子が真からということは、どうぞと言う事なんです。どうぞさせて下さいと、これが真なんだ。今年は相済まんことでした、これこれでしたけれども、せめて来年はこれこれのおかげの頂けれる私にならして下さい、「どうぞ」これが真なんです。もうほんなこつお供えちいや、もうちょっとお金100円か酒一升ち決めちゃる人がある。もうお神酒の一本もお供えすると、そうにやお供えしたごと思うとる人がある。差し引き計算をしてごらんね、そこんところにね、おかげは受け徳ということなんだ。
 だからおかげの範囲というものはね。それを違うそれもおかげというのでしょう。神様にじだんだ踏みをして、お願いをして頂いたおかげもおかげならです、私共がね人一倍あかぬけした、御用のできるそのこともおかげでしょうが。だからそのおかげが頂けれるね、神様にじだんだ踏んで、もらいも、いうて、もうとにかくもう無理をいうてから、もらい儲け、もらう分が儲けと言う様な、ならおかげという意味にも、私はならないことはないやっぱり。
 けれどこのおかげと言う事が段々信心によって分からして頂いたらね、神様が喜んで下された、同時に自分たちも勿体無い、有り難いとして喜べれるおかげは、10万円の儲けのありよったお商売人がです、100万円の儲かりの出来る様な商売人にならせて頂くということまでが、おかげではなくてね、その100万円のおかげが頂けるようになったら、10万円のお供えが出来る様になったと言う事がおかげなんです。
 先日信徒会長の平田会長が言うておられたと言う事、皆がおかげ頂いた、こう大なおかげ頂いたちゆってから、「どげなおかげ頂いたの」と言ったら、思いがけないこれだけの金銭のお繰り合わせを頂いたち、それが何がこう大なおかげかっち言うて、ゆったとこう言うのですね、その頂いたおかげをどう行じさせて頂いたかと、神様のお喜び頂けれるようなことに行じした時、初めてこう大なおかげを頂いたのだと、そのおかげでなからなければ、こう大なおかげってことにはならん。
 いわゆるそのことが使うてへらぬ金百両というようなおかげになるから、広大なおかげなんだね、ところがその、100万円なら100万円のおかげを頂いたと言う事だけが、広大のおかげと。その100万円がどう使われたかと言う事が、受け徳なんだ、受け徳になる、徳になるから使うても使うても金百両と言う事になる。ただ広大なおかげを頂いて、100万円儲かりましたというだけなら、50万使えば、あとは50万になるじゃないね、そこんところが受け徳なんだ。
 そのような信心によって、徳を受けると言う事。だからせんじ詰めて言うと、おかげは受け徳、受け勝ちと言う事は、これは一つ、その漢文風に読まにゃいかんですね、おかげはね、徳を受けた者が勝ちだと言う事になるんですね、徳を受けたものが勝ちなんだ。どんなにグズグズ言うたところで、徳の前にはじようはないでしょうがね、片一方の方は黙ってござったっちゃです、黙ってござろうが、お徳を受けてござるなら、黙ってござる方のほうが必ず勝っとるです。
 いかにも負けたごとあったり、向こうがいかにも勝ってござるごとあるけれども、段々年数が経っていくに従って、結局は黙ってござった、徳を受けてござった、いわば力を持ってござった方が勝っておる。徳を受けた者が勝ちなんだね、だからこの御理解60節はそのようになってくる。まず徳を受けなきゃならん、徳を受けた者が、この世では勝ち、いや、この世ではない、あの世でも徳を持ったもんには勝てんのである。
 そこでお徳を頂くためにね、お徳を頂くためにというと、またちょっと語弊がありますね最近は、お徳を受けるための信心なんていうことは、と言われておりますからね、けれども、神様が徳を受けようと思わんでも、徳を与えて下さる、神様に信用して下さいといわんでも、神様の方が信用して下さるというような信心を、さして頂かなきゃならない。そこんにきにね、おかげは受け徳、おかげは受け勝ちとね。
 お参りのし儲け、修行のし儲けね、お供えのし儲けと言う様な信心が、段々身に付いてこなければならないことが分かります。皆さん私が言うたけんお供えするじゃなくて、どうぞ今日からね、どうぞね今までの倍増、100円お供えの人は200円、1000円お供えしとったら2000円、いうならお供えの出来る様な信心をね、頂かせて下さいと願わなきゃいけません。そこに今まで10万円儲かりよったつは、100万円儲かるようになるでしょう。
 そして差し引き計算してみるとね、10万円儲かって1万円お供えしたのでは、どげんなるですか?9000円しか儲かっとらんけれど、100万円儲かって10万円お供えができる時には、もうすでに90万円というものが、自分のおかげになっておるのですからね、おかげは受け徳、おかげは受け勝ちである。というてね氏子を痛めては、神は喜ばんぞとね、だから先生が言うたからお供えしたんじゃ、これは神は喜ばんね、寄進勧化をしてはね、だから勿論御道では、寄進勧化と言う事をいたしませんね。
 それこそ氏子に真さえあれば、庭の散り葉一枚でもと、神様は氏子の真を求めたもう。そこで、私共の真がいうなら、お互いが木の葉どん、毎日お供えしたような事では、どう言う事になるかね、あぁ金光様は、お賽銭10円ありゃお参りができる、なるほどお参りはできる、いや10円はいらんね、1円でんいらん、神様はそげなことで差別をしなさるようなことはないけれどもね、真さえあればですけれども、その真がです、段々私は、神のひれいと共にですね。
 100万円の御用ができるようになった、一千万円の御用ができるようになったと、いう私はおかげを頂く、そこんところを、私はおかげは受け勝ち、おかげは受け、おかげは受け勝ち、受け徳というふうに教えて下さるのでないかとこう思うのですね、いわばお徳を受けた者には勝たん、まずお徳を受けた者が勝ちだとね、今日は私だから、このおかげは受け徳、受け勝ちとこう教えられる、おかげについての、まぁいわばお話をしたつもりですね、ですから。
 おかげというのがあまりにも大範囲にわたっとるです、御道の信心では。どんな場合でも、おかげ頂いた。だからそのおかげがですね、天地書附のそこにありますように、おかがは和賀心にありという和賀心ね、和賀心に伴うてくるおかげ。このおかげが一番最高のおかげですね、何というても、これが一番最高です。信心によって自分の心が和らぎの世界に、賀びの世界に飛び込んでいけれるような日にち。
 そこから有り難い、勿体無いという、その心が神様の心に添い奉る、神の願いに応えて立たせてもらえれる信心ができるときね、信心共栄の基というものができるね、信心が神も人も共に栄えていけれる道がそこから開けてくる。そういうおかげをもって第一とするわけですね、だから和賀心を求めてそして、今までね100円お供えができよった人が200円のおかげの頂けるような、願いをかけての信心。
 もちろん、だから和賀心が根本にあらなければならんことは勿論ですね、そして人の真似ができんようなおかげを頂く為には、人の真似のでけないような御用ができるような、おかげを頂かせてもらうことを願いとしなければいけないね、お供え一つでも固定したことであってはならない、10年前も100円、10年後もまだ100円、これでどうぞどうぞと言うて、おかげを願う。どんなに言うたっておかしい。というてだからいかんというて、もし私が言うたとすると、これは寄進勧化に類する。
 その辺のところに、難しいところがあるわけですね、おかげは受け徳、受け勝ちと仰せられるおかげ、非常に範囲の広い、まぁいうならピンからキリまでのおかげがあるけれども、今日のご理解頂いとりますと、お互い一つ最高のおかげを受け徳にしたい、受け勝ちにしたいおかげを頂く。いよいよ大祭も近づいて参りました、報徳祭ですね、神国感謝祭ですね、昨日ある方が、今度の大祭にお供えさして頂きたいちいうて。
 その方は二丁ぐらい田んぼをしとんなさいますでしょう。去年よりも度一俵づつ多かった、だからおかげで20俵多かったわけです、その中から2俵どん3俵どんお供えすることがなんじゃろかいなぁとね、おかげを受けてからのそれなのですからね、でなからなければ、神国感謝祭と言う事にはなりませんね、お互い一つこの辺のところを、よくよく心して、真から用えさして頂けるところの御用がね、今年よりも来年とでけれる願いを立てなければならん思うですね。
   どうぞ。